九州絶佳選
福岡
水城の記憶−大宰府市、春日市等−


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丈夫ますらをと思へるわれや水茎みづくき水城みづきの上に涙のごはむ
 <万葉集巻6‐968大伴旅人>
 天平2(730)年、大納言となった太宰帥旅人は大宰府を去る。わずか3、4の大宰府滞在であった。着任して間もない頃、妻郎女が逝ってしまったにせよ、筑紫は旅人の思い出が詰まったところだった。標記の歌は、児島という遊行女婦の歌への返歌。そこにはもう、武門の名族大伴卿の氏の上の面目は感じられず、ただただ悲しみにくれる旅人。翌天平3(731)年7月、旅人は奈良の都で薨去。67歳の生涯であった。
 水城は、大宰府の安寧を保障し、また旅人ならずとも異郷へ旅立つ者に別れの悲しみを誘う象徴的な堤であった。四王寺山の尾根から左方に延びる細い線状の影が水城(写真上の中央部)である。官人は高さ10メートルにもなる水城の大堤の関門を出ると、前途に言い知れぬ不安を感じとったことであろう。大宰府市、大野城市の境界付近に残る水城大堤(写真右)や春日市の大土居(写真下)の水城が大宰府防衛のよすがをとどめている。
 日本と新羅の関係が緊張し、百済の救援のため奈良を旅立った斉明天皇が筑紫で崩御すると、中大兄皇子(天智天皇)は那の津(博多)から3万2000人余の兵士を乗せた軍船を2陣に分け朝鮮半島に進めたが、白村江の河口において唐、新羅連合軍の軍船170艘に挟撃され、大敗を喫した。日本は、西暦663年(天智2年)、約300年続いた百済経営から撤退を余儀なくされ、日本国内に激震がはしり緊張に包まれたことは想像に難くない。唐、新羅の連合軍の日本進攻は予断を許さない情況であったことであろう。日本書記は、・・・天智天皇三年、於筑紫築大堤貯水名曰水城・・・と伝えている。
 国土防衛の要として664年(天智3年)、大宰府周りに延々と水城の要塞が築かれたことは無論、対馬、壱岐、筑紫に烽火(狼煙台)、防人を配し、翌665年(天智4年)に大野城など大宰府周りに城を築き、また667年(天智6年)に金田城(対馬)や長門城(山口)、屋島城(香川)、高安城(奈良)を築城し大和に通じる瀬戸内海の守りを固めたのである。近世に至るまでこれらの大規模な施設がこれほど短期間に築造された経験を私達は知らない。豊臣秀吉の名護屋城築城をはるかに凌ぐ大事業であったであろう。
 水城の築堤に延べ60数十万人の農民が使役された。これら防衛施設の築造やの防人の徴用などの負担は、古代庶民史に暗い影を落とすことになったこともまた忘れてはならない事実であろう。−平成17年5月−
水城2 水城3 水城4
水城大堤 大土居水城(現地
案内写真から)
大土居水城