月読神社のこと(松尾神社)−京都市東山区− |
京都の松尾山の南麓に「月読神社」(写真左)がある。社は延喜式に「葛野座月読神社」としるされた明神大社である。祭神は高皇産霊尊・月読尊である。桓武天皇の延暦21(802)年に大社に列せられ、醍醐天皇の延喜6(906)年に正一位に叙せられている。延喜式の社名の左注に松尾末社とあり、今日においても当社は松尾7社のうちにあり、松尾神社の摂社である。
月読神社は松尾神社から150メートルほど南に鎮座し、斎衡3(856)年に現在地に移されたことが文徳実録にみえる。実はその3年前の仁寿3(853)年に都に疱瘡が大流行した際、当社の神託によって疫病が鎮まったところから人々が当社に詣で助けを求める由、三代実録にみえる。そうすると、延喜6年に当社に最上位の神階が与えられたのもその功からであろう。
月読神社の奉祀暦年は不詳である。当社は、松尾神社のうちにあるが、その創立はどうも松尾神社より古いようにも思われる。もともと桂川の水浜にあった社が水難のおそれから現在地に遷祀されたといわれる。
月読神社の元宮は壱岐島にある。月読神社は、阿閉臣(あべのおみ)事代主が朝鮮半島に遣わされたとき壱岐で宣託を受け京都に祀られるようになったとも忍見宿祢(おしみのすくね。壱岐県主の先祖)が京都に伝え祀ったとも伝えられ、日本に神道が根付くもとになった古社である。
松尾神社は大宝元(701)年に 秦氏の長者秦都理が建てたと伝えられる。秦氏は応神天皇の時代に百数十県の民を率いて渡来した弓月君の子孫といわれる。東漢氏とともに最古参の帰化系の氏である。主に近畿に定住し、絹織物の生産に従事した。養蚕の普及とともに、氏族の特異性を失ったが土豪的勢力を養って経済力を蓄え、中央貴族の一員となる者もいて非常に栄えた氏族である。天平のころには秦氏系統の諸氏は1200戸を数えている。その勢力の中心は葛野(現京都市)に依拠した秦氏である。松尾神社の摂社、末社はそうした氏族の発展過程において、松尾神社に統合されていった神々であろう。月読神社が壱岐県主の先祖によって京都にもたらされたと仮定すれば、その一族もやがて秦氏に吸収されていった当時の実勢を示すものともいえるだろう。−平成19年4月− |
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