古墳の面影−堺市− |
堺市庁舎展望ロビー(堺区南瓦町)に立つ。眼下にところどころに青々とした森が見える。上空から見ると、それは満々と水を湛える盾型の池に浮ぶ森。スカートをはいた人形のポンチ絵のように森は見える。仁徳陵古墳である。前方後円墳。さらに左右に目をやると、その右手に履中陵古墳、左手に反正陵古墳が市街を押し分けてある。いずれも天皇陵である。ニサンザイ古墳、御廟山古墳、いたすけ古墳などの天皇陵級の巨大古墳も視界の中にある。どれも前方後円墳である。
仁徳の父応神、允恭の子雄略ら各天皇陵は羽曳野市に、仁徳の子允恭天皇陵は藤井寺市に所在する。4〜5世紀ころにいわゆる「河内王朝」を築いた天皇陵が堺市及び同市にほど近い域内に集中する。高句麗広開土王碑銘文に、西暦391年、倭王が朝鮮半島に進出した事跡がしるされている。その倭王はたぶん河内王朝の創始者、応神天皇と推認できないものか。
中国の史書(宋書、南斉書、梁書)に、5〜6世紀ころ任官を求め、倭王が中国王朝に使いを遣った記録がしるされている。中国風の好字を用いて、讃(さん)、弥(ちん)、済(せい、興(こう)、武(ぶ)と名乗った五王が遣使の当事者であった。日本書紀や古事記などに記述された天皇名や系譜等と宋書等中国史書との照合から、五王の当てはめが行なわれ、諸説はあるが済は允恭、興は安康、武は雄略と考えてほぼ間違いはなく、讃は仁徳、弥は反正と考える者が多い。宋書夷蛮伝の記録から仁徳天皇は西暦421年〜430年間に3度の遣使を宋に送り、弥は438年に安東将軍倭国王に任官された。さらに、宋書は443年に済の貢献を伝え、済は安東将軍に任官されている。倭五王中、最後に遣使した武は、興が死んだ後、478年に遣使し、安東大将軍倭王に任官されている。倭国は代替わりのタイミングで中国王朝に任官を求め、朝鮮半島への利権或いは倭国内における天皇の優位性を示すために中国王朝のお墨付きを期待してのものだろう。しかし、倭国王に授与された品位は高句麗、百済の王より低いものであった。中国王朝は倭国から献上される方物より自国の防衛を意識して、たぶん朝鮮半島諸国の活用をより重要視していたのだろう。以来、倭国の遣使が中国に赴くことことはなく、両国の没交渉時代がながく続いたのである。一方、中国文化は中国王朝の朝鮮半島支配の要であった楽浪郡の遺民などに伝えられており、倭国は応神天皇のころから渡来人を招請するなどして連綿として中国文化を受容していたから、もはや中国の冊封下にある必要性も減じていたのかもしれない。
眼下の古墳群は、倭王が君臨し、大陸に雄飛した夢の跡。巨大古墳は大阪湾に臨み、国内外にその威光を示すモニュメントでもあったのだろう。 −平成21年7月− |
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