荒木家住宅−庄原市比和町森脇− | |||||
国道432号線に沿って比和の中心街を過ぎると、道路とつかず離れず、比和川が流れている。森脇という集落にさしかかると、道路位置が少し高くなり、比和川の左岸に開けた段丘上に人家が2、3軒みえる。最上部の茅葺屋根の住宅が荒木家(写真)である。 荒木家は、永禄3年(1560年)、奈良から当地に移住した神官を務める家系という。座敷と納戸境に高間という神座が設けられているのもそうした事情によるもの。入母屋の屋根は雄大である。17世紀末から18世紀にかけて建築された住宅と推定される。 |
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茅葺屋根の葺替記録(葺替講) | |||||
大正時代に三河内集落で行なわれた茅葺屋根の葺替記録が残っている。鞍掛家の本宅葺替普人夫附込誌外1件がそれであり、「比和の自然と歴史 第九集」(比和町史編集委員会、昭和52年)にまとめられている。 同資料によれば、三河内に合力と通称された屋根葺講があり、集落内の108戸から茅刈、屋根職工、台所仕事など労務の無償提供や茅、縄、竹などの資材に、米、もち米、大豆、豆腐、酒、昆布など食材の提供を受けている。金員を提供する戸もある。うち2割ほどの戸は、労務、資材、食料の項目すべてに合力している。労務提供は延べ253人。もっとも、すべての労務等が無料というわけではなく、屋根職工は4、5名の専門職工を雇っている。部材の茅については、自ら刈取ったぶんや貸付分の返済を受けた茅の外に購入分がみられる。 屋根の葺替えは約30年に1度の割合で繰り返し行なわれ、屋根の葺替えを行なった戸では、各戸から受けた労務や資材の提供状況を克明に書きとめた。他家の葺替えが行なわれるとその記録を参考にして合力した。 鞍掛家の場合、葺き替えに11日間を要している。11月の中、下旬で天候に恵まれず期中の3日は雨にたたられている。通例は1週間ほどで終わったのだろう。期中の賄に要する食材の調達は、当主と料理人が三日市(現在は庄原市内、写真下は三日市の町並み)に出かけ、調達が行われている。購入する品目や量も多かったことから地元で調達しにくい事情もあったのだろう。 この茅葺屋根の葺替えは中国山地の農村の1例であるが、無償の労力や資材、食材の提供を行なう互助組織(講組織)は当時、全国のいたるところに存在した。戦後、講の本質が必ずしも十分に理解されないまま、田植講なども含め集落の共済・共助の営みは、第1次高度経済成長期を迎えた昭和30年中頃から崩壊しはじめ、20年ほどのうちに完全に崩壊した。−平成18年5月− |
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