平賀源内と竹林上人−さぬき市志度町−
  平賀源内と竹林上人。二人とも讃岐を代表する博識の才人である。両人とも生年があまり違わず、竹林上人は志度寺の塔頭寺院である自性院の院主を務めた人。源内は自性院常楽寺の檀家だった。自性院に源内の墓所がある。
  源内は、高松藩の士分から願って浪人となって長崎に遊学、のちに江戸へ出て林家に学び、エレキテル、陶器寒暖計など100種の発明に加え、西洋画、戯作、鉱物学、本草学、俳諧、滑稽小説など諸分野に天才ぶりを発揮した。
  竹林上人は、自性院主を2年間務め30歳で職責を譲りもっぱら竹林と号し、志度の間川で修行に励み和歌、俳句、数学、茶道、活け花などに才を発揮した。童らとくったくなく戯れることもあったという。竹林上人縁の「間川三十二勝」は志度の西部に所在する。山は植物遷移によって松からコナラ、アベマキなどの落葉樹林に変わりつつあり松は少ないが、春の山つつじや木石の風雅に親しまれるとよい。
  天分に恵まれた二人は諸分野にその天才振りを発揮したが、晩年は明暗を分けた。源内は奇行の癖があったようであり獄中死を遂げた。享年52歳。親友の杉田玄白は、”ああ非常の人、非常のことを好みて、行これ非常なり、何ぞ非常に死するや”と追悼の趣を表している。竹林上人は”讃岐の良寛さん”と慕われ、没後に京都小野随心院宮より上人号を贈られている。

  志度市街の志度寺近くの旧街道沿いに平賀源内の旧宅が保存されている。邸宅の脇に源内の銅像がある。表通りに格子戸の重厚なつくりの古民家が随分残っている。
旧街道 平賀源内銅像 平賀源内旧宅