阿波十郎兵衛屋敷-徳島市河内町- |
・・・ふるさとを、はるばるここに紀三井寺、花の都も近くなるら
ん。巡礼に御報謝と、いうも柔しき国訛・・・・ |
阿波で祖母にあずけられ、生き別れになった浪人十郎兵衛とお弓の子お鶴は、親を尋ね西国巡礼の旅に出るのだった。一方、十郎兵衛は阿波藩士であったが預かっていた名刀国次を盗まれたので、それを探すために浪人しお弓とともに大坂の玉造に住み、名を銀十郎とかえて盗賊の群れに身を任せる日々。飛脚が一通の手紙を届けたのでお弓が開くと、同類が検挙されたので一時も早く立ちのけとの知らせ。お弓が嘆き悲しんで神仏に祈っていると、そとから巡礼歌がきこえる。物を与えようとお弓が門に出てみると可愛らしい巡礼姿の少女がいる。呼び入れて問答するうちに少女がわが子とさとるお弓。災いが少女にお
よぶのをおそれ母と名乗らず路銀を与えて国へ帰れとさとすお弓。名残惜しげに立ち去る少女。たまりかね少女の後を追う母お弓。 一方、銀十郎は金を奪われそうになった少女を助けて家に連れ帰り、そのゆえを尋ねると小判をたくさん持っているという。小判に目がくらみそれを貸せというと少女は承知せず、大声で助けを求める。近所に声が聞こえてはと少女の口に手をあて、なおも頼む銀十郎。口から手を離せばすでに少女は息たえている。呼べど叫べど息を吹き返さない少女。あわてて少女を布団の中に隠したところにお弓が帰ってきて、娘がやってきたことを話す。銀十郎は大いに驚き、わが子を殺したことをさとり懺悔する。妻は驚愕し娘の死骸を抱いて涙にくれる。その懐中に手紙があるので開いてみると、手紙は老母が臨終の際に夫婦宛に書いたもので、国次の刀を盗んだ者は郡兵衛であるとしたためてある。夫婦は驚き喜ぶも、追っ手が押し寄せてきたので、我が家に火を放って逃走する。・・・なんとも哀れな結末を太棹の三味線の音にのせて太夫が声を振り絞る。
10段続きの「傾城阿波の鳴門」の第8段目の「巡礼歌の段」(お弓とお鶴の出逢いの場面)は、情感をくすぐる場面として私たちの記憶のなかに生きている。脚本は、竹本半二らが大近松の「夕霧阿波の鳴門」を改作したものである。竹田出雲の「菅原伝授手習鑑」、「仮名手本忠臣蔵」とともに忘れられない名作というべきであるが、半二、出雲ともに阿波の出身である。
「傾城阿波の鳴門」はデデンもの(義太夫狂言)や芝居としても演じられ、芝居では「巡礼歌の段」は「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)」のどんどろ大師の場として一幕物にしたててある。出逢いの場の設定が浄瑠璃と異なるが、常に観客の目を意識した舞台装置やストーリーに工夫がなされたのである。戦後間もない頃、この狂言はよく演じられたものだった。それにしても近松の作品は、同時代の西鶴や芭蕉とは違う視点・・・玄関先から庶民の家庭を窺う卑近さが庶民の支持を受けたのであり、さらに下層社会へ接近を求める庶民の目は、その近松作品にすら不断に改作を求めるのである。近松作品には実に改作ものが多い。 |
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さて、劇中の阿波十郎兵衛は、史実において実在の十郎兵衛とはだいぶ違う人のようである。十郎兵衛の生誕地・阿波宮島浦の人々は、十郎兵衛を義人として語り継いでいる。
十郎兵衛家の当主は、代々十郎兵衛を名乗り、江戸、大坂、九州久留米、越後に売り場(支店)を持つ藍商の大店だった。1646年(正保3年)、宮島浦で生を得た十郎兵衛は、22才で家督を相続すると、宮島、鶴島の二浦の庄屋を務め、阿波藩から「他国米積入川口裁判改め役」に命じられ、与望のある義侠にとんだ人だったと伝えられる。
しかし、十郎兵衛が他国米積入川口裁判改め役に命じられ藩政にかかわったことが、皮肉にも十郎兵衛の運命を左右する事態へと発展するのである。1685年(貞享2年)、船頭彦六の不正によって久留米で積み入れた肥後米の納入数量が問屋の仕切書と一致しなかったため、十郎兵衛は彦六に代わって弁済するなど善後策を講じたが、彦六は逆にこぼれ米を値切られていると十郎兵衛を訴えた。十郎兵衛の立場を見透かした逆手に取る行為だった。当時、阿波藩は、産業政策として換金作物の藍の栽培を奨励したため、米が不足し他国から輸入していた。国禁を破る行為だった。そのような事情から阿波藩は、十郎兵衛を裁判改め役に当て厳格な監視のもとで米の積み入れを行なっていたのである。しかし、彦六は訴えを取り下げる気配はなく、幕府に阿波藩の米の密輸が発覚しそうな事態へと発展してしまったのである。1698年(元禄11年)、ついに十郎兵衛は、罪状も明らかにされないまま、別罪の海賊4名とともに屋敷近くにあった甚左原に曳きだされ、刑場の露と消えたのである。享年53才。この一件に連座して、十郎兵衛の子男子3人が同日死罪、女房お弓と女子お鶴は大坂峠を越え讃岐に追放されたと伝えられる。重炉米の積み入れに伴い生じる商慣行などが内在し、事件の様相を複雑にしているのである。藩により泣いて馬しょくを斬られる十郎兵衛は、観念の目を閉じ刑に服したという。
死罪の経過がはなはだ不鮮明であり、また米の密輸に藩が直接関わる事態への疑問から、十郎兵衛は海賊の一味とする説もある。「坂東喜右衛門婆の伝説」は海賊説を採ったものであるが、十郎兵衛の死後、百年以上経てからしるされたものであり、にわかに同じがたい。 |
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当時、芝居や浄瑠璃は今日のマスメディアの役割も果たしていた。近松らは、大坂の玉造に屋敷(支店)を構え、海賊と同じ日に処刑された十郎兵衛や死に別れとなった母子の噂を聞き、たまたま大坂で阿波の浪人が巡礼の子供を欺いて殺害するという事件もあったため、それらのニュースを組み合わせストーリーが仕立てられたのであろう。
大近松の原作「夕霧阿波の鳴門」は十郎兵衛の処刑から12年後の1710年(宝永7年)に書き下ろされている。史実も忘れかけられたころだったであろう。改作「傾城阿波の鳴門」はさらに58年後の1768年(明和5年)だった。ストーリーに何の疑問も抱かれなかったであろう。
ともあれ、楝塀に囲まれ、長屋門を備える「十郎兵衛屋敷」(写真上)が吉野川の河口左岸に現存している。庄屋屋敷は往時にくらべ五分の一ほどの規模。鶴亀の庭園や十郎兵衛の遺品、初代天狗久の木偶(でこ)人形などが展示されている。近年、農村歌舞伎を模した人形浄瑠璃上演館が整備され、定期的に地元の婦人部によって「傾城阿波の鳴門」が上演されている。屋敷近くに十郎兵衛縁の宝生寺や処刑地跡(甚左原)などがある。
近松門左衛門の墓所が唐津市の近松寺にある。近松の生誕地については諸説あるが、唐津の近松寺で遠室禅師について修行の後、京都に出て浄瑠璃作家となり、1724年(享保9年)逝去の折り、遺言によって同寺に葬られたと伝えられる。近松寺は、歴代唐津藩主の墓所や曽呂利新左衛門作の舞鶴園などがある。山門は名護屋城から移築されたものと伝えられる。同寺へは第12師団軍医として小倉で勤務していた森鴎外が近松の墓参に訪れている。-平成16年11月- |