宇和海のリアス式海岸は、無数の入りくんだ浦や島嶼を生み、急峻な山塊が海岸線に迫る険しい地形をなしている。宇和海の入り江に、皆江(西予市三瓶町)という半農半漁の集落がある。南予地方はいったいに年中行事などに古色をよくとどめており、皆江の盆行事などからその一端をうかがい知ることができる。
皆江の盆は、例年8月13日から15日までの3日間。15日が送り盆。盆の期間中、各家庭で丁寧に盆行事が行われる。オショロ舟が流される15日の送り盆は極めて特異である。
15日の夕刻、浜から曳き舟にひかれてオショロ舟がでてゆく。全長3メートルほど。舟に線香、ロウソクを立て、飾付けをして初盆(新盆)を迎える各家庭の者が浜で供養を行った後、故人の好物などを舟に積み、新仏は冥土へ旅立つのである。新仏の縁者や集落の人々が浜に出て舟を見送る。いっときして、オショロ舟に火が放たれる。赤々と入り江を染める火は送り火。
オショロ舟は、新盆を迎える各家庭の者によって共同で作られる。もともと藁であったが、近年ではベニヤ板に変わった。オショロ舟は宇和海一帯で広く行われているある、近年では廃れたところも多いという。
精霊流しなど慰霊(仏送り)の行事は全国的に広く行われているが、沿海部において隠岐のシャーラ舟や宇和海のオショロ舟のように集落が共同して行なう盆行事を伝えるところは近年では珍しくなった。鳥取県赤碕町のシャーラ舟は30キロの沖合いまで曳かれてゆき放たれる。全長1メートルのシャーラ舟は日本海流に漂い、遠く能登半島や男鹿半島に達するものもあるという。
皆江のオショロ舟が入り江をでて燃え尽きるころ、浜では盆踊りがはじまる。
広場の中央に孟宗竹を立て、四方に提灯をつけた縄を張り、片隅に口説きの演台と太鼓を置く。櫓は設けない。口説きは、番傘をさして口説く(写真左下)。番傘をさす理由はよくわからないが、瀬戸内海・宇和海や日本海の沿岸地方の盆踊りでは広く行なわれていたようである。私はかつて福岡県芦屋町(「はねそ」(盆踊り))や白石島(岡山県笠岡諸島)、見島(山口県)の盆踊りで番傘をさして口説いていたのを見たことがある。もっとも40年ほど前のことである。当時、白石島の盆踊りは、櫓を立てることはなく、海岸の波打ち際で番傘を握った口説き方と袴姿の太鼓のはやし方が並び、その周りを頭巾をした女性が踊るというものだった。
皆江の踊りは三つのステージに分かれていて、レコード踊り、歌舞伎くずし、扇踊りの順。レコード踊りは、レコードに合わせて踊る一般的な踊り。
歌舞伎くずしは、阿波の鳴門など浄瑠璃の歌詞、節を真似た口説きに合わせて2〜5人が組になり、輪になって踊りながら進む。一組一組、演目が異なっていて、歌舞伎の名場面を連ねていく。一通り踊り終えると組が入れ替わる。「昔は3日間踊りました。1人で1日、3演目。3日間で9演目ほど踊りました。」と、地元の古老。最後のステージは扇踊り。複雑な扇の所作を交えながら品よく踊る。両手に扇子を持って踊る二及の高松踊りとも異なり、こちらの踊りも大変、興味深い。歌舞伎くずしは、明浜町の渡江(とのえ)に同種のものが伝承されている。皆江地区では口説きの伝承者は二人ほどという。
歌舞伎くずし、扇踊りともその淵源は定かではないが、江戸時代から明治にかけ歌舞伎芝居や淡路の源之丞(人形浄瑠璃)の地方巡演が盛んに行われたころ当地に伝わり、浄瑠璃の語りと歌舞伎芝居を習合したものではないだろうか。にわか(チャリ)が出てきて笑いをとるのもおもしろい。
歌舞伎くずし、扇踊りともに、新盆の家庭では、故人の遺影を背負い或いは会場の中央に飾って踊る風がある。盆踊りはもともと死者の慰霊であり、念仏踊りに起源がある。そうした盂蘭盆の淵源がより明確に表現されているのであろう。比較的新しい時代に付加されたものと思われるが、特異であり、私はかつてこのような習俗をみたことがない。
哀調を帯び野太くそして物悲しい口説きには感極まるものがある。こうして故人(新仏)は、集落の人々とともに盆踊りを楽しみ、供養され冥土へ旅立つのである。−平成16年8月−
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