| 丹後半島北海岸を往く-京丹後市- |
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丹後半島北海岸
京都の北部に丹後半島がある。その突端(最北端)に経ヶ岬があり、国道178号線が周回する。国道に沿って丹後半島の北海岸をたどると京都府最西端の久美浜に至る。
丹後半島の北海岸は、断層運動によって形成された海成段丘が対馬海流や風波の浸食作用を受け、櫛先のような半島や岬を研ぎだし或いは段丘上に狭隘な平野をうみ、その背後のなだらかな傾斜地に人が住みなしている。
人類の歴史はせいぜい400万年。自然の営みは、人類のそれと比較のしようがない遠い過去を背負いつつ、美しい海景をつくり、更新しつづけている。丹後半島の海景もまた、そのような地球の歴史を刻んだ日本海の絶唱といえそうだ。
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経ヶ岬の標高130㍍にもおよぶ断崖に白南風隧道を貫いて昭和37(1962)年、国道178号線(周回道路)が開通した。大野ダム竣工(京都北部)の1年後の開通だった。以来60年余、周回道路は丹後半島の生活環境を一変させたことであろう。
京丹後市丹後町袖志
経ヶ岬から国道を西に下ると人口140人ほどの袖志集落がある。
袖志は近畿地方最北の集落。消波ブロックで固められた道路の背後に住居がたち並ぶ。日本海に直面したこの町に風もないのに波浪が立ち、海浜はざわめている。
(袖志の海女)
海を抱える袖志は海女の町だった。
今、集落の半数以上が高齢者。海浜の他の集落と同様に、生業の漁業や段丘上の田畑や棚田でコメや野菜をつくり生計をたてる。
かつて袖志の海女はみ数名で漂白しながら櫓櫂を操り、隠岐島や越前海岸まで出かけ漁撈生活をする者がいた。瀬戸内海の家船や宗像の海女ほど行動範囲は広くはなかったが、若狭湾に雄飛し一部地域に漁業権を得る者もいたという。
風をよみ、潮の流れに逆らわず櫓櫂を繰り、潜って海藻を捕る海女の潜水技術は丹後一。やっかみから袖志の盗っ人船といわれることもあったという。
(風の兆)
袖志の海に‘イセチ’が吹く。春先から南風が吹き始め次第に風向きを東に変え、5月初旬の土用明けのころまで吹く風をそう呼ぶ。潮と風向きをよみ間違えると船は沖に流され、海難にいたる。
袖志の海が怖い海であることには今も変わりはない。磯に近づくことさえ手足が震えるような漁場が随分ある。波静かな日、磯でノリ掻きが行われている。しかし今、マツシマメガネ(競泳用のメガネに類似)をかけ水没して漁をする海女の姿はみえなくなった。
京丹後市丹後町尾和
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| 海成段丘1 |
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| 海成段丘2 |
袖志集落をぬけ半島を西に進むと、国道の左手に尾和集落がある。人口50余人。
汀線が隆起し離水した海成段丘が海岸に向って幾筋も伸び、段丘上に水田がひらかれている。
5月、田植の準備(起耕)がはじまった。そこは丹後半島東海岸の伊根町新井崎の海成段丘と似ている。尾和のそこは海抜20㍍ほど。段丘面は新井崎よりだいぶ低い。沖ゆく船に尾和集落のありかを告げている。
(十三仏板碑)
尾和集落の田んぼを海岸に向って歩むと海成段丘の先端に墓地がある。入り口辺りに、額部に二重線を刻んだ「十三仏」の板碑が立っている。
額部の下に種子を刻み、5段に彫り分けてある。劣化によって初仏の不動明王の種子は剥落し、板碑の造立年、造立者ともに文字が読み取れない。海浜の気象の厳しさが感じとれる。
「十三仏」は室町時代ころ始まった故人の追善供養の信仰。初七日から三十三回忌までの間、逮夜(忌日の前日)ごとに十三仏を描いた軸を掛け、故人の成仏を祈る信仰とされる。
尾和の十三仏は仏間の軸ではない。板碑に種子を寫した野面のそれで私は丹後・丹波の集落で目にしたたことはない。有難く拝ませていただいた。
十六体仏を刻ん普賢寺集落の天王板碑(京田辺市)や九度山慈尊院(伊都郡九度山町)でレリーフの種子名号板碑を見たことはあったが十三仏のそれを私は見たことはなかったのである。
十三仏信仰の主旨は、忌日に故人の生前の行いにつき、まず閻魔王の審問による裁判を受ける際、判決によって地獄に落ちないよう地蔵菩薩の助けを乞い、成仏を願うというもの。故人は成仏できるまでに十三回、異なる裁判官から審問を受けその都度、異なる仏の助けを得てようやく成仏できるのである。宗派により教義上の解釈から十三仏供養を行わないところもある。
尾和の人々は十三仏信仰により故人はもとより己の成仏をも願う‘逆修’の願いを込め、墓地に板碑を立て、日々の精進を誓ったのだろう。
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| 板碑群(丹後半島) |
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| 化粧地蔵(宮津市宮前) |
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| 由良ヶ岳山麓(宮津市) |
(丹後の地蔵信仰)
丹後では尾和に限らず今も祠や道端に、法華塔や金剛塔、板碑地蔵などが丁重に祀られ生花が活けてある。
明治初年のころ政府の方針によって道端に祀られた庚申塔などの雑宗石碑の撤去が進められた。しかし地蔵信仰が盛んな丹後では今でも、海浜から山岳部の集落に至るまで丁寧に化粧が施された六地蔵を祀り生花が供えてある。
不慮の災害によって死亡した者や水子などの救済は六地蔵に頼るしかなく、厳しい自然と向き合いながら暮らす人々のお地蔵さんに寄せる祈りが尽きることがない。
若狭湾南部のライフライン・京都府道45号線を由良川河畔から宮津に向かうと、由良ヶ岳山麓の集落に奇麗に化粧した六地蔵を見かける。崖地の多い厳しい環境にありながら、お地蔵さんと寄り添って暮らす人たちの水田管理に手抜かりはない。堅実な生活と手抜きのない田作りにお地蔵さんも微笑まれているようにみえる。 |
海岸の自然と離湖
丹後半島の海浜の集落の多くは砂州が発達した小湾の背後にひらけている。夏、海岸は海水浴でにぎわい鳴き砂が音色を競う。
湾口の大きさはそれぞれ異なる。琴引浜、八丁浜、久美浜と半島の西に行くにしたがって砂浜の規模が長く大きくなる。
砂州は左右から発達し、天橋立や久美浜湾のように繋がり、やがて海から遮断された離湖になる。その一つ、網野町の離湖がそれ。古来、人気の観光地となっている。
丹後半島北海岸の左右に砂嘴のある浜の多くは離湖となる運命にある。
砂浜の保存対策として砂丘への植樹などが講じられている。 |
台地の集落-京丹後市丹後町中浜、久僧、上野、平等
尾和集落を過ぎ国道178号線を西に向うと中浜、久僧、上野、平、此代の集落(いずれも京丹後市丹後町)が連なっている。
人口規模の大きな中浜(230人余)集落がその海岸線のハブ集落。郵便局がある。一帯は海水浴や浜歩きなどで賑わうところだ。
浜それぞれに小河川が流れ込み、河川段丘や海成段丘上で稲作や果樹の栽培が行われている。
(宇川の河口)
上野-平集落の間に宇川の河口がある。
海岸線と集落が近接し、背後に200㍍余の山が迫る複雑な地形をなすところだ。
中浜、上野の集落を縫うように国道178号線が通り、海抜10㍍にも満たな道は河口辺から急カーブして宇川を這い上がり平集落に迫る。波を被るような悪天候の日もあるだろう。経ヶ岬と国道178号線との接合部とともに難所の一つであろう。
国道は大陸と向き合って在り、国防や背後の集落の災害防止上、丹後半島の東海岸(旧要塞地帯と通称される)と対をなす重要なライフライン。景観の維持とともに様々の視点から道路整備のあり方について検討が求められる地域のひとつであるだろう。
(宇川のアユと民俗芸能)
宇川はアユなど渓流魚が遡上する河川の一つ。内水面漁業(採捕に届出等の規制あり)が行われる秘境の川。最上流部に鳥も通わないといわれた細川ガラシャの隠棲地味土野がある。流域の野中は宇川の真珠、美しい集落。ビンザサラ踊など貴重な民俗芸能が伝えられている。
犬ヶ崎の海景(此代)
此代集落(京丹後市丹後町)の西に海中から生え出たような犬ヶ崎(標高251㍍)が聳え、手前に 展望所がある。
そこから見渡す平、上野、九僧など下宇川一帯の海景は
日本三景のひとつ松島(宮城県)に例えて‘丹後松島’と賞される半島の絶景ポイントの一つ。
延々と続く小湾の岬や岩礁の風景(写真左上)は一幅の軸をみるようだ。
丹後北海岸にはもう一つ丹後松島と対極の海景がある。袖志や竹野海岸からのぞむ海成段丘や断層崖が続く海景(写真左下)がそれ。難読地名の‘間人(たいざ)’の淵源の海景と考えられる。(後述)
竹野集落の風景-京丹後市丹後町竹野-
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| 竹野海岸(犬ヶ崎をのぞむ) |
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| 大成古墳群 |
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| 竹野川河口・立岩 |
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| 間人の後ヶ浜海岸 |
竹野は人口440余の農漁村集落。弧線を描く海岸は弓月の浜。左手に漁港、右手に砂浜が続く。
集落から国道178号線をはさんだ裏山に、縄掛突起のある組合せ式石棺が出土した産土山古墳がのぞいている。
漁港の西に大成古墳群がある。古墳の石材は海岸周りに林立する柱状節理をなす溶岩マグマ。野辺でハマダイコンが浜風に揺れる風景に囲まれて古墳はある。公園化され展望の良いところだ。
大成古墳群から西を眺めると竹野川河口に立岩、後ヶ浜(海岸)、間人集落がみえる。
竹野川は河川延長27.6キロメートル。丹後一の河川(二級河川)。
近年、竹野川河口辺りは国道178号線の整備、竹野川の改修、農地改良と相俟ってアウトドア-施設や‘道の駅てんきてんき丹後’の開設など観光開発が進み、訪れる人も多いところ。
竹野川流域の氾濫原は今、土地改良によって海抜2㍍ほどの田圃に整地されている。往古は潟湖(ラグーン)。山際の集落越しに北から産土山古墳(円墳。径54㍍)、竹野神社(延喜式内社・大社)、新明山古墳(前方後円墳・墳丘長190㍍)が居並ぶ(写真参照)。 往古は潟湖に出入りする船人の癒しどころだったに違いない。
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| 新明山古墳等竹野遠景 |
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産土山古墳と石棺
(現地案内板引用) |
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| 竹野神社 |
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| 神明山古墳 |
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| 蛭子山古墳 |
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| 網野銚子山古墳 |
竹野川河口部は古代遺跡の展示場。潟湖の弥生遺跡から住居跡や土師器、須恵器などが出土し、「道の駅てんきてんき丹後」傍の公園に展示されている。
(産土山古墳)
産土山古墳は竹野漁港裏手の海抜18㍍ほどの断崖上にある。直径約50㍍の円墳。
丸みのある蓋石に縄掛突起のある凝灰岩製の長持型石棺や埴枕、勾玉等玉類、変形四獣鏡、冑、短甲、鹿角制鉄剣など豊富な武具が出土し、併せ石棺から遺骸、毛髪が出土した。調査(昭和14年)後、埋め戻されたという。
(竹野神社)
社は鬱蒼とした樹林に鎮座する延喜式内社(大社)である。
立派な中門(向唐門)をくぐると規模の大きな一間社流造の本殿がある。祭神は天照大神。古来、日本海を往く船人の信仰の篤い神社である。
境内にもう一社、竹野媛を祀る斎宮神社(摂社)が鎮座する。竹野媛は第九代開化天皇妃。在地の大県主由碁理の娘とされる。
斎宮に竹野媛のほか麻呂子親王(用明天皇皇子。(聖徳太子と兄弟)らが併祀されている。
式内社は地域の歴史の語り部。竹野神社の南に新明山古墳がある。(写真参照) |
| 竹野神社の祭礼 |
〇テンキテンキ祭 竹野神社に伝わる祭礼に、竹野集落の子供6名によって演じられる「テンキテンキ」がある。テンキテンキと唱えながら踊る太鼓とササラを擦りながら演じるいわゆる風流の芸系に属する民俗芸能。例年10月に奉納される。
〇鬼祭 鬼祭は斎宮の祭神・麻呂子親王が退治した鬼を鎮める神事とされ、12月の丑の日に斎行される。祭は午後9時ころ中門裏手に宮衆が集合し、牧ノ谷集落の鬼神塚に向かい、鎮魂の趣を表すという。祭を見た者は3年以内に死ぬという禁忌が伝承されている。祭り当日、氏地の者は戸口を固く締め、物言いを慎み静かに過ごすという。宮衆も神事次第を物申さず、一部始終が不明の闇の中の祭というべきか。
鬼祭りは湧出宮(和伎神社)の祭りのような忌籠祭の類型中の神事かと思うが追儺や鬼遣或いは森廻り神事として行われる豊穣の祭が麻呂子親王の鬼退治に結びついたものか。見学することもかなわず闇の中。奇祭中の奇祭の所以であろう。 |
(新明山古墳)
新明山古墳(墳丘長190㍍)は、網野銚子山古墳(墳丘長201㍍)に次ぐ大型前方後円墳(写真上)。
滑石製盒(蓋付き容器)や家形埴輪等形象埴輪、高坏、器台等の広範な焼成品が出土している。学術調査は行われていない。築造は4世紀後期~5世紀前期とする説がある。
開化天皇妃の竹野媛の父由碁理は倭国が神話から歴史時代に入る黎明期の人。丹後王国の諸豪族の一人であったものか。
神明山古墳は、倭国の日本海勢力が北九州、出雲を経て丹後に至った証。さらに丹後から若狭・近江、越前に至って継体天皇が誕生し、筑紫の豪族磐井を打ち大和政権にようやく日本統一の明かりが見え始めた古代史の一大記念碑であるだろう。
(蛭子山古墳)
竹野川を遡り、野田川との分水嶺を超え9㌖ほど南に往くとチリメン街道できこえる‘加悦谷’がひらけている。
加悦谷の東側を通る国道176号線脇に蛭子山古墳(前方後円墳。墳丘長145㍍。与謝郡与謝野町明石)がある。墳丘長は日本海岸一の網野銚子山古墳、新明山古墳に次ぐ丹後3番目の規模。
蛭子山古墳後円部に埋葬施設が3基ある。うち1基の主体部から内行花文鏡(漢代)と直刀各1点を添えた刳抜式舟形石棺(写真参照)が出土し、同石棺周辺から直刀・剣身・鉄鏃・鉄斧の総計51点の武器等の副葬品が出土している。盗掘痕があったという。持ち去られた副葬品の仔細は不明。埋納された武器は相当数に上った可能性がある。古墳内部はさながら武器庫のような様相を呈していたと推される。
古墳の所在地は‘えびす山’と伝承され、埋葬施設に舟形石棺が用いられている。‘えびすさま’は福をもたらす神。
歓迎すべき神として崇められる存在。豊富な武器を保有し丹後に入部した被葬者は渡来人を示唆していないか。舟形石棺もまた渡来人(舟に乗る海神)を示唆し、被葬者は倭人があこがれた王(豪族)ではなかったか。
古墳脇の谷を隔てた50㍍のところに作山古墳群(5基)がある。一帯は与謝野町立古墳公園として開放され、埴輪など往古の古墳の実装を見学できる。公園内に埴輪の展示施設(はにわ博物館。写真右参照)が併設され、丹後埴輪等が体系的に整理された良い施設。小さな町に大きな遺産。丹後王国の繁栄を伝えて余りある。
(埴輪など土器にこと寄せて)
日本の古墳等古代遺跡から土師器、須恵器が出土する。須恵器は土師器より焼成温度が高く、土師器のように野焼でなく登り窯を用い焼成し、用途は異なった。
朝鮮半島南部の伽耶(1~6世紀)では土師器、須恵器は同時並行してつくられてきた。丹後の加悦の織物(織機)は朝鮮半島の伽耶から伝わった所産とされる。没交渉ではなかった。
須恵器は土師器より高度な焼成技術が求められ、丹後に伽耶由来の渡来人・土器人が居住し土師器、須恵器の両土器を焼成した可能性は古墳の出土品からも否定できない。土器の年代測定に前提(須恵器より土師器の方が古い)を設ける善し悪しが問われるべきか。
丹後の土器は鉄器、玉類、織物等々と同様に内外に移出され王国は富国化し、巨大かつ多様な古墳を築造し得た源泉の一つと思われる。丹後域内に土器づくりに必要な粘土の土取り場の知見はあるが小規模。埴輪や土器の制作工房や新たな土取り場の発見に期待を寄せたい。
円墳や前方後円墳等墳墓は一定の定法に基づき築造されたと推される。しかし、県主、国造、親王、天皇等々の地位に対応する墳墓の造営基準はなくまた、土木技術の進化や流行等によってその形状や規模は一様ではない。
また古墳時代の墳墓は倭国で行われてきた墓制と著しく異なり、副葬品等を含め伽耶等朝鮮半島のそれと酷似している。
さらに墳墓の設計・施工や副葬品等々について、文字をもたなかった倭人がその仕事を分担し埴輪や土師器、高坏等の須恵器、鎧等武器など渡来人乃至その後継の技人によって生産されたものもあろう。沓・イヤリング等々物品についてもは朝鮮半島由来のものがほとんどすべてである。
以上の墳墓の制作実態を踏まえると、ほとんどすべてが渡来人乃至その後継が携わったと考えられ、倭人は版築作業や土石の運搬等々を分担したものか。
丹後の渡来人は‘部’を組織し、族長はもとより様々の技人が丹後に住みなしていたのだろう。その族長こそ伽耶の安羅(国)から大和に入った渡来人・東漢氏と同族の渡来人集団だったと考えるがどうだか。
(式内社・大虫神社)
作山古墳群の南東1.8㌖のところに延喜式内明神大社大虫神社(与謝郡与謝野町字温江)が鎮座する。大江山山麓にあって、二度の火災を経て現在地に落ち着いた由である。従四位下の高い社格を得た社は加悦谷の古い歴史をにおわせる。単なる農業神ではなさそうだ。
社地は加悦谷の好風が移ろう日当たりの良いところにある。丹後王国の都もこの辺りの丘に設けられたと思ってもみる。
古墳時代、雄略天皇に殺されそうになった御名・弘計尊(後の第23代顕宗天皇)と弟の御名億計尊(後の第24代仁賢天皇)が丹波余謝に身を隠した記事が日本書紀にみえる。親王たちが身を寄せるほど剛健の豪族が加悦谷のその辺りに館を構えていたのだろう。 |

〈武器に示された王者の履歴〉
調査が行われた丹後の産土山古墳、蛭子山古墳などの副葬品に武器が非常に多くまた、円筒埴輪など大型かつ様々の土器が埋納されている。
日本海のささやかな海浜や谷に、丹後の王はなぜ巨大な古墳を築造し、目を見張るような石棺に納まり、多種多様の武器に囲まれて眠るのか。往古、倭人は柿本人麻呂が詠じたように、棺内外を武器で埋め尽くした冥界を望むべくもなく、野山に捨て置かれた(自然葬)。しかし中国、朝鮮の王者は武器はおろか殉死の従者を引き連れ冥界に旅立つ者がいた。そして倭の王もまた大陸伝来の埋葬環境を整えた。その狭間を埋める何かがこの国に起こったのだ。疑問は尽きない。
新羅の人で天日槍は、その名が示す通り生前、槍を持ち倭国を巡覧したのだろう。槍は武器。天日槍の渡海の目的が透けてみえる。
もともと倭国に高塚を築き、武器や鏡などを傍らに置き埋葬する風はなかった。墓制はそう易々とは変わらない民族の手形といえる。
倭国の槍や鉾など武具の埋納は、渡来人の生前の日常を冥界(墳墓)にうつすことにより、己が身の再生ととこしえの繁栄を墳墓に託したのだろう。換言すると、彼らは朝鮮半島から倭国の征服或いは開拓を望み、武装の日常を古墳に閉じ込め、冥界でも王者であることを熱望した証であろう。古墳の規模や埋納品を検分すれば被葬者の思いに察しもつくだろう。
文化は個性、武器はそれを否定しそれを塗り替える魔力。日本海に漕ぎ出た渡来人が王となって日本の古代社会を差配し、君臨した証こそ巨大な前方後円墳などの墳墓といえないか。
韓国を旅して新羅や伽耶の古墳、副葬品をみると王が携える武器、装飾品、沓等の日常用具は日本の古墳から出土したそれと同じか酷似するものが随分多いことに気付くはず。
| 〈日本語と朝鮮語〉 |
戦後、朝鮮への帰郷が叶わず食料の買い出しを生業とする人から丹波や丹後、若狭の言葉の訛りが朝鮮語とよく似ていると聞いたことがある。地名しかりであろう。
50年ほど前には、かつて鮮総督府に勤務していた日本人から博多弁を朝鮮語に器用に変換してみせる人に出会ったことがある。言葉は民族の交流の歴史を映して懐かしい。 |
土器もまた同様。土師器、須恵器を同時、並行して生産できた伽耶の伎人(ハチウド)が間人など丹後に住みなし、鉢や甕、埴輪を生産し、丹後王国ばかりか諸国に移出していたことだろう。
(漢籍にみる倭と朝鮮)
三国志の魏書倭人伝中、東夷伝条に朝鮮半島南部に存在した狗邪韓国の記事が載っている。拘邪韓国の位置や版図は特定できないまでも、「倭の北岸の拘邪韓国」とあり、異説もあるが倭国の飛び地が朝鮮半島の南部に存在したのだろう。韓籍に記事がなく実相はよくわからないが、倭人が支配した国乃至倭人が混住する国が存在したことを否定する積極的な理由はない。むしろそのような史実がなければ数万人の倭軍を高句麗に派兵することなど到底、叶うこともなかったようにも思われるのである。
邪馬台国以降、中国に遣使する倭の国々はなく、倭の五王が遣使を再開するまで倭国の‘空白の4世紀’或いは‘欠史時代 ’(3~5世紀の150年)とされる。したがって後世の日本人は、神話と歴史時代が混交し、紀年もあやふやな記紀に頼らざるを得ない状況は今も変わらない。しかし日本史の欠史時代に倭国が滅びたわけではない。対朝鮮半島との交流、交易は営々と続き、巨大前方後円墳の築造など丹後王国もまた欠史時代を埋める存在と言えそうだ。
倭の欠史時代に崇神天皇は丹波(今の丹後を含む)のみ国名を明示してまで丹波道主命(四道将軍の1人)を遣り、丹波の平定に躍起となったのは‘空白の4世紀’だった。特段、強権の国であったからこそ丹後は大和政権に注目されていた証であるだろう。倭国は空白の4世紀を経て歴史時代を迎えたとされる。
〈丹後王国の繁栄〉
丹後王国に加悦谷がある。チリメン街道で聞こえたところ。日本の着物生地の半分以上を生産する機業地の一つ。与謝峠(国道176号線)から一望できる。
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| 加悦谷 |
加悦は海浜の町ではない。山また山の大江山連峰の山裾にある。なだらかな傾斜地に拓け、野田川が平野を二分する。
神明山古墳の発掘調査が行われておらず丹後王国の王城(首都)の探索に大きな課題があるものの加悦谷こそ丹後王国の都ではなかったかと思ってもみる。
丹後王国の竹野川河口(京丹後市丹後町竹野・間人)や浅茂川河口(京丹後市網野町浅茂)の古代都市はかなり奥深くまで潟湖(ラグーン)を成し、交易船が舳先を並べ土器や鉄器、米や雑穀、管玉などの加工品等々の積出港或いは移入品の鉄鋌など鉄地金の受入港として荷役人が湖畔を忙しく立ち回っていたことだろう。
湖畔の神明山古墳や網野銚子山の王墓を仰ぎ見て、日本海に向け潟湖を漕ぎ出す船人の姿がみえるようだ。
北陸方面からの物通は丹後与謝の湊(宮津湾阿蘇海)から加悦へまた、丹波福知山方面からの荷は与謝峠を越え加悦に陸送され加悦は四通八達の巷を成していたに違いない。
潟湖をなす竹野川河口は、伽耶物資の倭の一大集散地と推され、墳丘長が日本海岸第2(第1は網野銚子山古墳)の新明山古墳や延喜式内社(大社)竹野神社が往時のよすがを偲ばせる。
大和に歴史時代がおとずれる前夜、第9代開化天皇妃となった竹野媛は丹後・竹野の人。大和政権はそのころから丹後王国に接近したのだろう。しかし、歴史時代の始まりとされる第10代崇神天皇が丹波道主命を丹波(そのころ丹後は丹波の域内)に派遣する記事が日本書紀にみえる。倭の五王の時代(5世紀)に至ってもなお日本統一には至らなかったとみえ、磐井の乱を平定し屯倉の設置などを通じようやく大和政権の統治機構が整い始めた。統治国家日本の船出は大化の改新に着手し、大宝律令の制定を待たねばならなかったのである。
〈王城は加悦谷か〉
邪馬台国の女王が遣使を中国送って以後、倭の外交史は漢籍から消え、僅かに高句麗の広開土王碑や百済王が倭王に送ったとされる七支刀の存在から倭と高句麗や百済との関係史がおぼろげながら浮かんでくる。しか両記念物に示された金石分に欠字がありまた、その読み下しや文字解釈に諸説あり、倭の欠史時代の実相を知ることはできない。
奇しくも、記紀の研究が進み古墳の発掘調査などから倭の欠史時代の諸相が少しずつ分かりかけ、丹後が最も輝いた時代が欠史時代に重なることが知られるようになった。
朝鮮半島の折々の政治的混乱が伽耶、新羅等韓人の渡来を促し、丹後王国の商圏は拡大し丹後王国は大いに栄え、巨大古墳の築造を可能とする素地ができたと考えられる。
丹後王国の物資の集散地を見ると、竹野川、浅茂川両河口の潟湖周辺と王国の北辺・加悦谷に集中しただろう。丹後王国は邪馬台国や伽耶同様に豪族の連立によって成る政権と考えられ、議事殿等の集会施設を必要としたことは自明。
丹後の加悦から竹野まで25㌖もあリ浅茂(網野)はさらに遠くなる。さらに竹野と網野は海岸部に偏り、豪族の連立王国・丹後の都城の適地とは言いがたい。丹後の豪族たちは王都の適地を探ったことだろう。
丹後王国の施政を支える王都の議事殿たる集会施設は背後に山地を抱える加悦谷が適地であったことは自明。しかし豪族の序列を決めかねない王都の決定に大義名分を必要としたこともまた事実であろう。
〈王都の大義名分〉
中国、伽耶等朝鮮の王都はその位置(方角)が重要視され、奠都設計の基本となった。
藤原京、平城京、平安京等々の都城の設計は、中国の王都をモデルに、北極星の観測情報から南北の基軸をを割り出し、精微な設計が行われたことだろう。
そこで竹野と加悦谷の位置関係を探索するため、
①神明山と蛭子山の両古墳の緯度・経度を測定し方角等を計算すると古墳間の距離は25.5㌖、
②両古墳を結ぶ軸線は蛭子山の真北に新明山古墳があり、誤差は僅か1度。
両古墳の位置関係は偶然とは思えない。神明山の真南に蛭子山古墳を据える計画が決まり、続いて奠都計画が進められた可能性なしとしない。
地図の上下逆にして日本海岸を手前(南)におくと、竹野(神明山)の真北が加悦(蛭子山古墳)になり、議事殿(集会施設)は「君子南面」の中国・朝鮮の思想にも合致する。そのような王都の理屈から、墳墓(蛭子山)と議事殿の設計が完成し、王都の建設が進められたと想像する。
| 大虫神社のこと |
蛭子山古墳の南東1.8㌖の大江山山麓に大虫神社(延喜式内社・明神大社。与謝郡与謝野町字温江)がある。二度の火災により現在地に落ち着いた由である。位階は従四位下。 |
丹後王国は豪族の連立政権。かつ弥生時代からそれほど時日も経過していない。大袈裟のものではないにせよ、蛭子山古墳からそれほど遠くない加悦谷(吉野ヶ里遺跡参照)に集会施設が建てられたとしても不思議ではない。
加悦谷を見下ろす大江山山麓の蛭子山古墳に近い今の大虫神社の付近(温江)に集会施設はあったと想像するが、どうだか。加悦谷のどこかで大建物の議事殿の遺構が発見されることもあるだろう。 |
間人集落の風景-京丹後市丹後町竹野-
竹野川河口から西方に後ヶ浜海岸がのびる。行者ヶ岩が海岸の中ほどにあって砂洲を生み、その向こうに間人集落がみえる。
人口1700余人の集落。冬季のカニ、夏季の海水浴・浜歩き、釣りや立岩めぐりなど間人は観光資源が豊富なところだ。
近年、竹野川河口部の整備が進み、アウトドア-施設や「道の駅てんきてんき丹後」の開設、竹野遺跡の整備など周辺集落との一体的な開発が進み、間人に訪れる人も多い。住居や公共施設は海抜20㍍ほどの海成段丘上に軒を連ねる。神社が多いのもこの町の特色。
間人の漁業の歴史は古い。集落の西・城島(周囲4㌖。)に先史時代の漁具の知見があるという。地磯が続く島は公園化され釣りや散策を楽しむ人も多いところ。
間人の漁民は、江戸時代には朝鮮近海や五島列島に出かけ操業し、カレイの延縄漁も行われていた。近年は沿岸漁業を主とし船も少なくなったという。日本海のカニの漁獲が減りつつある今、間人カニは幻のカニになりつつあるようだ。
険しい丘上の集落は湾への移動に困難を伴う。
平成9(1997)年11月、深い谷底のような海面に間人港大橋(大間橋)が完成した。難所に架かる斜張橋(大間橋)が輝いてみえる。橋は主桁から徐々に左右に橋梁を延ばし施工するディビダークカンチレバー工法によって架けられた。丹後の名橋の一つであろう。
間人の竹野川河口に周囲1㌖、高さ20㍍の立岩がある。柱状節理をなす一枚岩はマグマの冷え固まった1500万年の地球の記憶が詰まった島。鬼を岩に封じ込めた伝説がある名所。
立岩の近くの海岸に第31代用明天皇の皇后・穴穂部間人皇女の立像があ る。皇后の母方の蘇我氏と物部氏との争乱を避け当地に逃れた皇后は、都に戻る(退座する)際、間人の名を贈ったという。住民は恐れ多いので皇后が退座された意味を込め間人をタイザに読みかえたという地名譚がある。一方、記紀に記録がなく地名譚を疑問視するムキもある。
しかし意味もなく地名譚が生じたとも考え難く、6世紀ころ皇室の品部として存在した蘇我氏所縁の間人に身を隠した可能性も払拭できない。つまり皇后の外戚蘇我氏(渡来人説あり)は外交を所掌した大和朝廷の権臣。蘇我氏を支えた東漢氏(伽耶の安羅国出自)との関係が指摘され、間人に漢氏が率いる土師器、武器等の生産集団が存在し、皇后の入内によって蘇我氏の部から穴穂部皇后の名代に組替えられたと考えれば地名譚の現実性が増す。
本居宣長は間人の呼称を土器人(ハシヒト=間人)に求めている。当地の4~5世紀の土器需要を考えれば古くから当地にハチ(鉢)を作る集団が住みなし、蘇我氏の部が存在したと考えれば納得できる。
一方、地名は易々と変化するものではない。6世紀以前から間人はタイザであった可能性もある。
丹後半島の海岸線を往くと海景の美しさとともに櫛のように海浜に突き出た海成段丘の景に目が向くであろう(写真参照)。段丘は細く低く延々と経ヶ岬までつづいている(写真上)。往古、日本海を往く船人は当地辺まで漕ぎ来ると、海浜の段丘は堆砂の連なる丘のように見え、タイザの地名として定着していたのではないかと思う。
間人は巨椋池の東一口の‘一口’と同様、難読中の難読地名のひとつであろう。
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網野から久美浜まで
間人を出て国道178号線を往き砂方、三津、掛津、小浜など海浜の集落を経て丹後半島の西端の町久美浜まで約7 ㌖ある。網野の浜詰から久美浜の湊宮まで、緩やかに絞った弓月は兵庫県境で尽きる。
網野の風景
網野は海と織物の町。
縄文、弥生の昔から海浜、離湖周辺に生活痕を残し、古墳時代になると201㍍に及ぶ日本海側第一の巨大前方後円墳
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| 島児神社 |
が築造され、丹後網野の繁栄は極点に達したことであろう。網野人は浦島太郎(浦島子)伝説は網野のそれと唱えてやまない。浦島太郎を祭神とする神社が浅茂川漁港辺(島児神社)や網野町網野に2社(網野神社、六社神社)ある。
律令時代には旺盛な生糸需要に支えられ調物として峰山、加悦谷のそれとともに都に運ばれ、或いは朝鮮半島向けの交易品となり丹後は富国化したことであろう。そのような網野の前史が藩政期に始まったチリメン機業をはぐくみ櫛比の町・網野の繁栄をいまに伝えている。
鳴き砂の琴引浜、八丁浜、五色浜などの名勝が東西に並び、離湖の光風が観光客を誘う。
離湖は左右の砂嘴が延びやがて繋がり陸地に這い上がっ た湖。今、運河で八丁浜に連なる。
離湖の西にもう一つの潟湖・浅茂川湖が存在した。藩政期から明治の末年まで続いた干拓事業によって潟湖は消え、宅地をうみ水田や漁港が整備された。
今の浅茂川(福田川)流域の水田面の標高(海抜約2.5㍍以下の水田面を抽出)から往時の潟湖の大きさを想定すると、潟湖は少なくとも網野銚子山古墳の上流(南方)数百㍍まで広がる細長い大きな湖であったと考えられ、潟湖の湖面に銚子山古墳(海抜37㍍)の雄姿が映し出されていたことだろう。
平成12年10月1日、八丁浜で第20回全国豊かな海づくり大会が開かれた。天皇陛下御製の碑が八丁浜に立っている。浜は緩やかな弓月を描いて美しい。歩けは心地よく鳴く浜は赤子の遊園地。水無月祭(7月)が斎行される浜。沖で色さやかな高級魚あかあまだいが舞い踊る美しい浜。
| 我が妹が 丹後の海に 放ちゆく あかあまだいの 色さやかなり <御製> |
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久美浜湾の景観
久美浜(京丹後市久美浜町)は人口9千人ほどの京都府最西端の町。人口の2割ほどが農林漁業にたずさわる。
久美浜湾の牡蠣、コノシロ寿司など海の幸やメロン、スイカなどの特産物を求め入込む観光客が多い町である。
北九州をたった先人は日本海岸の出雲を経て網野・竹野を経てさらに東に向かう途中、久美浜に古代中国貨幣、石器・鏃などの遺物を残している。幾度も幾度も文化の波が海の道を往き久美浜に達した証。先史・縄文・弥生・古墳時代の海の道は西から東に文化の結晶を伝える道だった。
久美浜湾は京都府北海岸最大の潟湖の一つ。運河で日本海につながる。天橋立に似た小天橋は海水浴、浜歩きで賑わうところだ。
浜辺でハマダイコンの花が揺れる風景は日本海の絶唱であろう。なにもない砂浜の波の音のかそけさがまた良く、折々に久美浜を訪れる人もいるだろう。
久美浜の魅力は海ばかりか立派な都市景観を持つひらけた町にある。久美浜は藩政期に代官所が置かれ、丹後北海岸など一帯の行政機関のハブをなす町だった。そのよすがと気品がただよう街歩きもまた良い。観光客が絶えないのもこの町のもう一つの顔と言えそうだ。-令和8年5月- |
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