治安や防災上の観点から明治に至るまで由良川の本支流に橋が架けられることはなかった。渡渉は渡し舟か徒歩。
参勤交代など多勢の移動を伴う折には「舟橋」が架けられた。渡船場の川幅一杯に船を繋ぎ並べ、舟から舟へ板を敷き並べ橋とし、対岸まで歩行した。
堀村庄屋記録(福知山市)によると享保10(1725)年5月、仙石信濃守(出石)が土器川(由良川支流)に舟橋を架け通行した記録が記されている。大名は但馬の出石藩主・仙石政房と推される。通行地の藩命によって役舟が出勤し、臨時の舟橋をつくって政房一行を渡渉させた。同庄屋記録によるとこの舟橋の便宜供与に金1両が人足、庄屋、組頭など43人に支給されている。今の貨幣価値で13万5,000円(米5kg4,500円で換算)くらいかと思う。労務の割に分配金が少ないのは舟役が助郷などと同様に雑役として課されていた証であろう。 |