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長崎 |
朝鮮訳官使−対馬市− |
鎖国下の我が国が唯一、外交関係を築いていた国は朝鮮一国のみだった。朝鮮から江戸まで、将軍の代がわりを機会にして、日本へ外交使節団がやってきた。一行500名ほどの使節団は朝鮮通信使と呼ばれた。江戸期に都合13回、来日している。
外交につき裁量権を得ていた対馬と朝鮮はよほど親密な関係にあり、通信使とは異なり、「朝鮮訳官使」と呼ばれた人々が府中(厳原)まで来ていた。李朝の資料によれば江戸期に都合51回、来訪している。藩主・宗氏の代がわりにとどまらず頻繁な来訪があった。
朝鮮半島と対馬との距離は50キロメートルほど。あさ出航すれば、夕刻には日本に到着するほどの距離であるから回を重ねたのであろう。
天候が急変すれば怖い朝鮮海峡。元禄16年(1703年)、日本を目前にして天気が急変し、鰐浦沖(写真下)で訳官使を載せた船があえなく沈没するという事件が起こっている。対馬藩士4名を含む112名全員が帰らぬ人となったのである。鰐浦の高台に112の霊石で組まれた殉難之碑(写真上)が建っている。晴れた日には母国朝鮮が望める高台で訳官使が眠る。 −平成18年3月− |
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