兵庫
黒田官兵衛生誕地の謎−西脇市黒田庄町黒田
 
 黒田城伝承地
 兵庫県の東部、内陸部に西脇市がある。市の中央部を加古川が貫流し、川に沿うようにJR加古川線が南北に伸びる。田園が美しい町。
 JR本黒田駅の東、約1`ほどのところに黒田官兵衛の生誕地(居館跡)がある。
 黒田官兵衛は戦国時代から江戸時代初期にかけ活躍した軍師。始め姫路の小寺政職(まさもり)に仕え、請われるほどに織田信長、豊臣秀吉・秀頼、徳川家康に仕えた。嫡子長政は、関ヶ原合戦で官兵衛とともに東軍に付き、総大将家康から軍功による加増を受け、豊前・中津18万石から筑前52万石の大封を得た。
 しかし、寛永諸家系図伝や黒田家譜などによると、黒田家は近江国伊香郡黒田村(滋賀県長浜市木之本町黒田)の出自とされ、祖父の代に備前国、後に播磨国に入り、官兵衛は父小寺(黒田)職隆(もとたか)の次男として姫路で生まれたとされている。
 一方、官兵衛は播磨(播州)国多可郡黒田(兵庫県西脇市黒田庄町黒田)で生まれたとする説が地元に伝承され、藩政期の地誌等に散見される。それによると官兵衛の先祖は累代の黒田城主。天狗山に築かれた城砦の帯曲輪が遺存し、既述のとおり山麓に居館((うば)(ふところの))跡の伝承地がある。
 官兵衛の播磨の黒田生誕を裏付ける‘黒田家
荘厳寺
黒田家略家図
略系図’が黒田荘内の古刹・荘厳寺から発見されている。同系図は寺伝によると、官兵衛の母方の親類と伝えられる勝岡嘉作(比延山城主末裔)が文化2(1809)年ころ黒田家累代の正室の御霊を弔う願文として奉納したものという。
 過日、荘厳寺を訪れ資料展示室(持仏堂)で黒田家略系図(複製)を見る機会があった。同系図によると黒田家は赤松圓光の庶流。圓光の子で初代黒田城主の黒田重光が観応2(1351)年に当地に入部し5000貫を領したとある。石高に換算すると1万2500石くらいかと思う。黒田家代々の位階は大方、従五位下。法名に大禅定門を付している。この地域の標準的な国人大名であるが、当地は丹波との国境にあって戦闘の絶えないところだ。官兵衛は重隆(しげたか)の次男として緊張感の絶えない環境の下、戦の泣き笑いを幼心に染込ませたことであろう。
 このように黒田家正史は官兵衛の出自について、小寺(黒田)職隆(もとたか)を父として天文15年(1546年)11月、姫路で生まれたとする一方、黒田家略系図では父は黒田重隆(しげたか)としている。父及び生誕地が双方で異なり、官兵衛の生誕地は謎に包まれているといえそうだ。
 この齟齬について、兄治隆(はるたか)が家督を継ぎ第9代黒田城主に就いたため、次男の官兵衛は姫路城主小寺職隆の猶子(養子)に入ったことにより齟齬が生じたと思うのだがどうだか。二百数十年続いた播磨黒田家は、元亀(げんき)(18世紀)年間に城主治隆が石原掃部助赤井五郎と戦い滅亡した。
 官兵衛は生涯数十回に及ぶ戦闘に関わっているが敗戦の経験がない軍師だった。情報の高い収集能力と計略の巧みさがそれを示しているように思う。
 官兵衛の辞世句に ‘思ひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はでなるにまかせて’がある。随分、のんびりとした調子で名人達者によくある特異な気分でうたったものか。いやぁ、毎年、生死をかけた戦いを続けた命知らずの官兵衛であったからこそ、‘思いおく言葉がないほど智謀を働かせ生涯、迷うことのないように精進せよ’と叱咤激励しているようにも思われる。思いよう勝手次第。官兵衛、慶長9(1604)年没。享年59歳。
 黒田荘の天狗山の山麓に秋風が吹き始めた。遠く墨絵のようにみえる播州の山裾に彼岸花が咲き始めた。 −令和7年9月24月−