黒井城散策 2本能寺の変と関が原合戦(父利三の死とお福の彷徨) |
本能寺の変と山崎の戦(利三の死とお福の彷徨)
天正10(1582)年6月1日、お福の父利三は光秀に従って亀山城を立ち中国(備中)路に向かった。光秀は老の坂で馬首を反し同2日早暁、本能寺に宿泊中の信長を討ち、次に嫡子織田信忠を二条城に討った。
信長は槍をとり応戦したが力尽き、居間に閉じこもり、火を放ち自刃。享年49歳。小姓森蘭丸以下十数人の家臣も信長に殉じて死亡。織田信忠も同様、二条城で自刃し果てた。
信長、信忠の遺体を発見できないまま日は過ぎ去った。その間、光秀は婚姻関係や友好関係
にある大名などに協力要請を行っている。丹後・田辺城主細川藤孝(幽斎)及びその嫡男忠興父子宛ての書状をみると、上京すれば摂津を、希望するなら若狭・但馬を進呈する、このたびのことは忠興を引き立てたいためにおこしたことでほかに目的はない等と記している。
藤孝らは光秀の誘いを拒否。忠興は光秀の娘お珠と離縁し、天運は光秀からしだいに遠ざかっていったように見える。
信長討死の知らせを聞いた秀吉は僅か13日で京に戻り光秀と交戦。世に言う秀吉の大返しで、光秀軍は山崎で秀吉軍と戦ったが秀吉の軍勢は3万余、光秀は総勢1万1000ほどの兵を山崎、近江坂本、安土の三方に配置したから山崎戦の帰着は明らか。光秀の読み間違えというべきか。
光秀は桂川を渡って近江に敗走する途中、小栗栖(京都市伏見区)で土民の竹槍で突かれ自刃。捕らえられた利三は六条河原で処刑され、掘り出された光秀の遺体とともにさらされた。
光秀の本能寺の変後の対応は丹念に練り上げたそれとは到底、考えがたい。信長に戦功が評価されずまた家康への接待の不手際などちょっとしたミスを咎められ光秀に加えられる異常な加罰等々・・・、外様への処罰を超えたひどい仕打ちが繰り返し繰り返し行われたことへの怨念が本能寺の変の引き金になったことは間違いあるまい。とりわけ、本能寺の変の直前におこった丹波・八上城攻めにおいて城主波多野氏が降伏する条件として信長の元に送った波多野氏兄弟の処刑は光秀の面目を否定するものにほかならなかった。怒った八上城残党によって、人質として八上城に残した母が殺される事態に光秀の怒りは極点に達し、本能寺で爆発したというべきか。
光秀の最終官位は従五位下(日向守)。大名(10万石以下)や国人領主などに与えられる平凡な官位だった。本能寺の変において信長を生捕り、処刑し、三条河原に首をさらすなど当時の勝者の流儀を完遂しておれば、ゆくゆくは征夷大将軍に昇り、誰もが認める武門の棟梁となる可能性がなかったとは言えなかっただろう。
しかし細川藤孝一族には親類光秀の拙い善後策を首肯するわけにも行かない冷徹な損得計算がなかったとも言えないところに戦国の世の非常さが思われるのである。勝者の光秀が敗者たる主君信長への見せしめを怠ることがなければ或いは諸大名が光秀のもとに馳せ参じ、秀吉の大返しにも対抗できた可能性も無きにしも非ずの可能性なしとしない。光秀は、論理より感情が勝った行動の結果、天下取りを見誤ったというべきか。
しかし信長の性根の危険性を感じ、被害にあった武家連中も少なくはなかったはずだ。信長が天下を取ることを恐れ、光秀のとった行動を賞賛する者がいたこともまた事実であろう。
不意を衝かれた家康の伊賀越え
本能寺の変当日、ゆるりとした風体で堺見物を終えた家康が上方にいた。信長と会するため上洛途上にあった。家康ははじめ信長と対等関係にあったが、信長が将軍足利義昭を追放すると信長に従属する関係に移っていた。信長に従いつつ、家康は虎視眈々とポスト信長を狙っていたのだろうか。
京に向かう道中、三河の商人から訃報を聞いた家康は斬り死にする覚悟を示したが家臣の意見を容れ三河に戻る意思を示したという。上方を出た家康は甲賀境の宇治田原(京都府)で休息(遍照院)し、信楽で宿泊した翌日、伊賀越えで伊勢の白子から船出して変後二日のうちに三河に戻っている。
お福の彷徨
本能寺の変で父利三を失ったお福は美濃の親元(稲葉氏)に引き取られ、母方の親戚・公家三条西公国(堂上家(上級公家))に養育された。
そのころ三条西公国の嫡子に実条(さねえだ)がいてお福とは4歳違いの兄貴分。お福10歳前後とみられ互いにゴンタして育ったことだろう。
二人は終生、親しい人間関係を結んだ。特に、実条は慶長18(1613)年に武家伝奏に任じられると幕政にも大いに貢献することとなる。(後述)
お福は、成人すると叔父稲葉重通の娘婿稲葉正成(筑前名島城主小早川秀秋付家老)の後妻に入っている。後年、関ヶ原合戦を経て夫正成が小早川秀秋付家老を辞し美濃に戻るとお福は正成と離婚し、家光の乳母となり、幕政にも係わった。
家康の孫娘(徳川和子)が後水尾天皇の中宮となり、和子所生の女二の宮興子内親王が誕生した。無位無官のお福は後水尾天皇に謁見するなど信じがたい行動をとり、興子内親王が天皇(明正天皇)に即位するなど徳川政権の発展にも大いに貢献している。(後述)
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