兵庫
黒井城散策 2本能寺の変と関が原合戦(父利三の死とお福の彷徨)(2)

家康の策略と関ヶ原合戦-秀秋の寝返り
 秀吉の官歴をみると、天正13〜14(1585〜1586)年にかけ関白、太政大臣(従一位)に任命され、同14(1586)年に朝廷から「豊臣」を賜姓されている。この時期に豊臣政権は安定期に入ったとみられる。功成り名を遂げた秀吉は慶長3(1598)年8月死去。
 秀吉死去後の政権運営について、後継の秀頼が成長するまで、5大老5奉行制度によって取り計らうこととされた。同制度はいずれも秀吉が死去する直前(7月)に成立したとみられ、大老に家康ほか前田利家、毛利輝元、小早川(上杉)隆景)など大国大名が、五奉行に浅田長政、前田玄以、石田光成など行政実務を処理してきたいわば高級官僚が就いた。しかし秀吉が亡くなるとすぐに内部対立が表面化するなか家康が頭角を現し、翌慶長4(1599)年9月には、大阪城西の丸で政務を執る家康がいた。
 慶長5(1600)年正月、家康は大老上杉景勝が行った城砦の修築に因縁をつけ景勝に再三、釈明を求めた。しかし家康は命に従わないことを理由に会津討伐を決め、総勢5万5千余にの軍勢を率い会津に向け出馬した。
 同(1600)年7月、奉行石田光成は家康を潰す好機到来と見て留守中に挙兵。情報を得た家康は兵馬を西に向け進軍を始めた。関ヶ原の導火線に火ガついたたといえそうだ。
 会津征伐は光成を誘い出すための家康の陽動作戦であった。一方、光成は常々、秀吉の違令に背く家康の勢力拡大を狙った婚姻関係の構築等を良しとせず家康を潰す好機と見たのであろう。両者の思いは様々でも、ことは次第に覇権争に発展し、先鋭化していった。
もうひとつの戦役(細川がラシャの死)
 秀吉の家臣中、光秀の娘を妻としていた細川忠興は本能寺の変を契機にお珠(後のガラシャ)と離縁していたが秀吉に許された。丹後の僻地で一人住まいのガラシャと復縁し、大坂城の細川屋敷にいた。
 そのころ、家康に従って会津征伐に向った武将のひとりに忠興がいた。慶長5(1600)年5月、光成は家康に従った武将の奥方の身柄を奪い、来るべき合戦の人質にする作戦を立て細川屋敷を取り囲んだ。そのときガラシャは家臣に胸を突かせ亡くなった。無抵抗の婦女子を奪うという光成の悪行は広く知られるところとなり、諸大名の大坂離れを一層、進めることになったのだろう。それから2ヵ月、光成は挙兵に及んだ。家康は会津に出征中だった。
関が原合戦(調略の実相)
  時に慶長5年(1600)年9月15日、東西の武将が関ケ原に集結。天下分け目の合戦の様相を示した。
 お福の夫正成は主君小早川秀秋(改名によって秀俊、秀詮とも。以下、「秀秋」と総称する。)に従って関ケ原合戦に従軍。西軍とみられていた秀秋の寝返りから東軍が勝利し、政治は徳川家康によって塗り替えられていく。
 秀秋の寝返りはどのような経過を経て実行されたのか。
 秀秋は合戦の前日まで鷹狩りをして遊んでいたという。秀秋のとっさの判断で寝返ったとする説や黒田長政と浅野幸長が秀秋宛に、東軍の味方になるように勧めた連書状が存在し、計画的な寝返りとする説など諸説ある。勝ちそうな方に付く秀秋の日和見的な曖昧さを指摘する説もある。
 関ケ原合戦は、東西両軍の兵合わせて約20万人、両軍ほぼ同数の兵が東西・南北それぞれ4`2`の野原を戦場とした合戦だった。秀秋隊の軍勢は1万5,000人と突出して多い。西軍の主将石田三成らは合戦前から秀秋の動きに警戒を怠らなかった。政権の移動必死の合戦で暢気に構える武将などいるはずもない。
 寝返り工作では情報の鮮度、作戦の良否、秘匿の固守が重要なカギとなる。合戦前後に実に様々の連書状が出回っり作成時期や内容等につき疑問のあるものもある。辻褄合わせに後日作成された文書もまた少なくないだろう。調略はペーパレスが基本。長政が連書状で云々の工作などは論外と思うがどうだか。
 秀秋の寝返りは、東軍の策士黒田長政が調略を仕立て、秀秋の家老正成と平岡頼勝の両家老が秀秋を説得し寝返ったという説に説得力を感じる。
 長政は黒田官兵衛の嫡男、父同様に謀略に長けた人物。石田三成とそりが合わず家康の養女と婚姻を結び東軍についた人物。秀秋の家老頼勝の正室と縁戚関係にあった。東軍の家康は長政の調略を了とし、秀秋方は頼勝から正成の順に調略をサウンドし、両家老2名と秋秀3人で細部を練上げたものか。
 合戦前日、秀秋は狩りをして遊び、やおら関ケ原に姿をみせたかと思えば西軍の伊藤盛正から松尾山城を略奪した。秀秋は乗っ取った松尾山城で陣容を固め、指揮棒を振り下ろし、一気に松尾山を駆け下り、指揮棒の先は西軍の大谷隊だった。怒涛の圧しに大谷隊四千余は逃散し、西軍の小隊が寝返り、連鎖を誘発した。合戦はその日の夕刻までに決着。東軍が関ケ原を制した。
 合戦初戦まで、三成など西軍の将に寝返り情報が漏れることはなかった。秀秋隊の丹波衆(丹波亀山城主以来の家臣)すら寝返りを理解できず、戦線を離脱する者もいた。秀秋の松尾山城の奪取は東軍の勝利を決定付けた。松尾山城の陣取り(略奪)について諸説あるがどうも秀秋と両家老の戦略で長政の発案ではなさそうである。秀秋は年は若いが文禄・慶長の役など戦闘に明け暮れた武将。経験不足や本人の生活習慣等から様々な批判はあるものの若さから産まれるひらめきや巧手もまた少なくなかったことだろう。
 敗走する西軍の石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は捕らえられ、京都市中引き回しの上、 六条河原で処刑され三条河原にさらされた。
秀秋の寝返りの再評価
 秀秋は秀吉の甥。後継候補者の一人として高台院(秀吉正室。)に育てられた。しかし側室淀殿に秀頼が誕生すると後継第一候補の秀次(高台院の甥)が謀反の疑いで切腹。石田三成の策略ともいわれる。秀秋の脳裏にやがて自分もかと、不安がすり込まれていたことだろう。長政はそんな秀秋の心理を読んで寝返りに誘導したものか。
 関が原合戦の死者は4〜5千余人と合戦の規模に比べても多くはなさそうである。諸国で同時多発した東西戦は東軍の勝利を機に止んだ。秀秋の寝返りは不幸中の幸いと言えなくもない。視点の違いが関ケ原の評価をわける。秀秋の寝返りの再評価が必要と思われる。
関が原合戦の論功行賞と正成の出奔
 関ケ原の論功行賞によって秀秋は筑前名島36万石から岡山55万石に加増され、秀秋の寝返りを仕組んだ黒田長政は豊前・中津18万石から筑前名島52万3,000余石の大封を得た。秀秋配下の二人の家老中、お福の夫正成(家禄5万石)は新任家臣の人事などを巡り秀秋と折り合わず、美濃に蟄居、浪人に墜ちた。
もうひとつの寝返り
 毛利輝元の家臣に吉川(きっかわ)広家という武将がいた。当時、文禄・慶長の役に出陣し槍使いの名手として戦功を挙げ、日本槍柱七本(にほんそうちゅうしちほん)の名をなした人。
 広家はもまた黒田長政の調略に応じたひとり。広家は輝元の別働隊として行動することが多く関ヶ原においても本隊と別に南宮山に布陣し、本隊の輝元の進軍を阻んだという。つまり広家は輝元の合戦不参加を表明する行動に出て結果的に東軍の勝利を導く結果となった。
 この広家の寝返りの大元は、声望と実力を兼ね備えた輝元が大坂城に送った安国寺恵瓊から、家康の会津征伐を奇禍として、光成の打倒家康の挙兵計画を播磨・明石で打ち明けられたことに始まる。進軍中の広家は承服しなかった。光成は文禄・慶長の役以来の広家の政敵でありまた到底、光成に家康に対抗できる力はないと読み、血縁のある毛利家を潰すこともできないという判断が働いたものか。もちろん長政の調略や光成の動きは輝元に仔細伝達されたことであろう。輝元の心中や知る由もないが結局、関ヶ原において輝元は指揮棒を振ることはなかった。
 合戦後の論功行賞で西軍総大将の輝元は中国六カ国中防長二国を除き召し上げられている。この結果をどのように評価するか、思いは様々であろう。 広家は岩国藩初代となって藩政を固めた。
1 黒井城の記憶とお福の生きた時代
2 本能寺の変から関が原合戦
2(2) 本能寺の変から関が原合戦(2)
3 江戸幕府開設と豊臣家の滅亡(大坂の陣),乳母お福の選任と意地
4 朝廷・幕府の抗争と禁裏の諸事件
5 紫衣事件とお福謁見の真相と女帝の即位の狭間