鞆の浦(万葉集)−福山市鞆町鞆− | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
大伴旅人 詠歌 (万葉集 巻3 446) 鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも (万葉集 巻3 447) |
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沼隈半島の南部に鞆という、風待ちの港として栄えた港町がある。 山部赤人、大伴旅人、遣新羅使など瀬戸内海を往った歌人たちが鞆にまつわる歌を残している。詠歌に「むろの木」を詠みこむのは、赤人以来の伝統であろう。赤茶けた花崗岩の地肌をみせる港周りの島々や地磯に茂るむろの木は、ハイネズ(地元ではモロギ)という喬木。 むろの木をイブキという者もいる。イブキは都辺りでも普通に見ることができる植物である。痩せ地に繁り、都人には珍しく、どこか神々しさもあるモロギをむろの木と見る方が自然であろう。似島など瀬戸内海の島々にはモロギ(写真左下は似島のモロギ(広島市))が広く分布している.。なぜか今は大木を見ることはないのであるが・・・。 それにしても旅人の歌は、単なるさみしさを越えた寂寥感が漂っている。天平2年(730年)12月、大納言となって上京の折、鞆で再びむろの木をみた旅人は、筑紫に下向の折、ともにむろの木を見た妻の郎女はすでに亡く、忘れられないことよ、と悲嘆にくれるのである。鞆の浦で三首、敏馬の崎(神戸市灘区岩屋中町の敏馬神社付近)で二首、妻恋の歌を詠んだ旅人は、奈良の都に還りついたときさらに三首、郎女を恋い詠った歌が万葉集に収録されている。伝統的な武門の宗主に生まれ、戦歴を重ねた旅人ほどの武人にして、その詠歌は余りも感傷的である。旅人は帰京の翌年、天平3(731)年7月、佐保で薨去。享年67歳。 |
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