熊毛の浦−熊毛郡平生町− | ||||||||||||||||||||||||
沖辺より潮満ち来らし可良の浦にあさりする鶴鳴きて騒きぬ <巻15 3642 遣新羅使> |
||||||||||||||||||||||||
天平8年6月(736年)、遣新羅使一行は熊毛の浦に船泊まりし、歌をよんだ。左記の歌は4首中の1首である。歌中の 緩やにカーブした海岸線は白砂をたたえ、漁港がある(写真左)。遣新羅使の泊地として最も相応しいところのように思われる。 上関は萩藩の御茶屋が置かれ、藩主や朝鮮通信使の泊地となったところ。諸施設が建ち並ぶ敷地は、山裾の県立熊毛南高校上関分校の高台から海岸まで三千坪にも及んだという。しかし、対岸の室津(本土側)を含む古代における上関の仔細がよくわからない。埋め立て等により次第に整備されてきたようにも思え、加えてこの海峡の潮流は尋常ではない。海流が猛烈な速度で船べりを叩くのであり、万葉集に詠まれたような鶴があさりし、沖辺より船人がのぼる情景を思うことができない。遣新羅使への応接などは郡司によって行なわれたであろうから、小郡
‘沖辺より船人のぼる呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを’となんとも心細い遣新羅使であったが、ト占の任により加わったとみられる雪連家麿は、気丈にも‘大君の命恐み大船の行きのまにまに宿りするかも’と詠いながらも、前途に旅の不安を滲ませるのである。 熊毛の浦をでた遣新羅船は |
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||