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天平2(730)年、大宰帥大伴旅人は病んでいた。脚に瘡(腫物)ができ重態に陥った。庶弟の稲公と甥の胡麿に遺言したい旨、朝廷に言上するのであった。両名は早馬を賜って筑紫に下り旅人を見舞ったが、旅人は数十日のうちに快癒する。 歌は、稲公らの帰京に当たって、百代、家持らが設けた酒宴で大宰府の小典山口若麿が詠じたものである。 若麿は、磐国山を越えるときは神に十分手向けなさいませ、荒々しい道ですから、とおもんばかっている。山陽道は、都から筑紫に通じる官の大路。しかし、周防の磐国山越えの道は、天下に聞こえた険しく、恐ろしい道であったのだろう。 近年、歌に詠われた山陽道は舗装され、明るい山道の印象。峠は樹木が鬱蒼と茂り、人気のない不気味さが漂う。古代の山陽道を思うのにはよい。 山陽道の直下にJR岩徳線が通り、トンネルが抜いてある。山陽道は、地元では参勤交代の道として知られている。 山陽道が通る欽明路は、周防源氏武田氏が住まいしたところ。武田氏は、天文9(1540)年、毛利元就の援助により安芸から当地に移り住んだ周防源氏の祖。文武両道の稽古屋敷跡がある。−平成18年6月− |
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